衆議院栃木県第4区:小山市、下野市(うち旧石橋町・国分寺町、旧南河内町)、下都賀郡(壬生町、野木町)、真岡市、芳賀郡(益子町、茂木町、市貝町、芳賀町) 下都賀郡(壬生町、野木町I)、芳賀郡(益子町、茂木町、市貝町、芳賀町)

4度目の挑戦で初めて当選

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3度の苦杯を舐めて志が強固に透明化

~衆議院選挙に4度目の挑戦で初めて議席を託して頂く~

 

初めての衆議院選挙

2012年8月22日、初めて栃木県第4区において衆議院選挙への出馬表明をし、打って出ることになりました。
ところが、まずは、11月に予定されていた県議補欠選挙などの応援に注力をしていたところ、そのさなかに突然の解散がありました。
結局、出馬表明してから4か月、後援会も何もないまま、ほとんど準備もできないままに選挙戦に突入しました。
今考えれば、かなり無謀であったと思います。

選挙戦は、有志の支援者の皆様に助けていただき、マイク1本で戦ったような選挙戦でした。
唯一手応えを感じたのは、公示前に、真岡JCの皆様の尽力により実現した公開討論会でした。討論会後に、参加者から一番良かったとの声を沢山いただいたことが、その後の強い支えになりました。

結局、現職3人を含む6人で争った混戦の選挙戦の中、想いを届けることはできず、あと一歩でした。しかし、2番目の期待をかけて頂き、49,021票を賜りました。
大変に悔しい想いをしましたが、捲土重来を期すとの覚悟から、翌日の朝から歯を食いしばって小山駅東口の駅に立ちました。

 

2度目の衆議院選挙

選挙後も、厳しい声から温かい声まで本当に沢山の声を頂きました。己の不明を恥じるとともに、支援者の情の熱さに感謝の気持ちで一杯でした。
再起を期すため、翌日から活動を続け、2013年12月15日には後援会を設立して頂きました。
2014年11月、さぁ、いよいよ解散総選挙という中、突然、暗雲が垂れ込めました。それは、所属する政党が解党か、というニュース。
自分の力ではどうすることもできない中、取材に対して、いかなる形であっても立候補すると明言し続けました。
なぜならば、私は、地元の皆様に、次、必ず戦い抜くと約束していました。何が何でもこの栃木県4区から国政に出る、その強い想いだけは1ミリもブレませんでした。
結局、解党の憂き目に直面しましたが、ここで座して死ぬわけにはいかない、立候補を断念しない、そんな強い覚悟を新たにしました。
こうした中、困った時に心配して下さる多くの支援者の後押しを受け、民主党の縁をもち、民主党公認で立候補することになりました。本当に温かく迎えてくれた全ての民主党関係者の皆様には感謝の気持ちで一杯です。

しかし、総選挙前のドタバタの影響を拭えるはずもありません。全て自分一人の不徳の致すところでしたが、今回もあと1歩の結果になりました。
ただ唯一救いであったのは、前回から得票を伸ばすことができたことでした。落選はしましたが、62,251票の期待をかけて頂き、取材に対し、即座に「飽くなき挑戦を続ける」と話しました。
また再びですが、翌朝も小山駅東口の駅に立ち、歯を食いしばって挨拶運動をしました。

 

3度目の衆議院選挙

2度落選を経て3度目に挑戦する政治家もそれなりにいるとは思いますが、そう多くはないと思います。落選すれば、人間以下ともいわれ、それなりに辛く応えます。

当然、当選しないで政治活動を続けていれば、いわれなき誹謗中傷や妨害行為を受けたり、まわりを巻き込んで多々迷惑をかけてしまいます。挨拶まわりをしていれば、当然、違う候補予定者の支援者にもあたり、嫌な思いをすることも多々あります。
しかし、当然ですが、これぐらいのことで志を引っ込めることはしません。

当時、地方選からやってもいいのでは、という声も頂きました。地方議会の仕事は貴い仕事です。しかし、そこに強い関心を持つ議員が担うべきであり、私の関心は、あくまでも、20歳の志であり、国政です。衆院選の挑戦を始めたからには「勝つまでやる」の気概でした。

3度目の挑戦に本格的に向かうときは、金融庁を退官してはや5年も経過していました。選挙区内を歩いていても、(心配されて)よく言われることがありました。「役所をやめない方が良かったんじゃないの」と。強がりを言うわけでなく、心から、この道に入ってよかったと思っています。やめない方がよかったと思ったことは本当に一度もありません。
もちろん行政の仕事は、純粋に公に尽くせば尊い仕事と思いますが、今、この道で活動を続けていると、本当に多くの人との出会いがあり、直接お声を聞くことができます。国民が求めていることを直接に聞くことができることはある意味で幸せなことであり、私は、行政では感じ得ない多くの声を背負って、国のために尽くしたいという気持ちに溢れていました。

そして、自分なりにそれまでの活動を反省しました。やはり、まだ自分は歩いていないと痛感しました。思えば、何かにつけて言い訳をして、一軒一軒の歩きが足りなかった、と強く反省しました。

それから、全てをかなぐり捨てて歩くという活動を本格的にはじめました。一軒一軒歩くと、これまでに何度もお邪魔していたお宅にはいく頻度も少なくなります。しかし、本気で歩いていくと、いつしか、それも理解して頂けるような感じになりました。

歩いて行くと、目からうろこでした。暮らしの身近なことからたくさんのお困りごとを聞きました。あの所有者不明となっている家から生えてきて家に迫る木を切ってくれ、道路の痛んでいるところを直して欲しい、またあるときは、子どもが結婚して欲しいと思って毎日氏神さまに拝んでいる、相続で揉めていて相談にのって欲しい、、、数え切れないほどの生活の悩みを聞くことができました。

そのお声にできるだけ寄り沿いながら、歩けば歩くほど、この地元がすごく好きになっていき、自転車で砂利を通る感覚がいつしか好きになってきました。

約3万2,000軒程度あるいた頃から、ようやく官僚出身の衣もとれてきたのでは、ということも少しずついわれるようになりました。

そんなときに、2017年9月上旬に、地元の大平町のおそば屋さんに入ったときに、先日、なんだか変な電話がかかってきたよ、という話を聞きました。聞けば、衆議院選挙に関する世論調査のようです。

その瞬間にピンと来ました。自民党の調査で近く解散があるかもしれないと感じました。すると、9月17日頃には、NHKの深夜のニュースで衆議院解散の方向の一報が出たように記憶しています。

いよいよ、3度目の戦いと感じました。しかし、その頃から、民進党が希望の党への合流話が持ち上がりました。
最終的に、両院総会の決定を受け、民進党が希望の党へ合流することとなり、私は、希望の党の公認で立候補の方向となりました。

この選挙のことは言うまでもありませんが、9月末頃の追い風の雰囲気から一転して大逆風の選挙となりました。非常に厳しい戦いとなり、4万軒程度歩いたぐらいでは逆風を跳ね返す力もありません。
結果は、再び次点となりました。ただし、76,294票を賜り、2回目よりも約1万4,000票の尊い期待を増やして頂きました。

 

4度目の衆議院選挙、背水の陣、運も見方に

落選後、過去2回と異なり、落選翌日に駅に立つ力は残っていませんでした。精魂尽き果て、水曜日か木曜日ぐらいからお詫びの駅立ちをしたように思います。

その後、次に向けてどうするかを率直に少し悩みました。政治活動は一人ではできません。多くの方を巻き込み、時には多大な迷惑をかけることもあります。それを公のために尽くすことで恩返しができれば良いのですが、三たび落選となれば、支援者の皆様には徒労感が残るだけになってしまうともいえます。

しかし、その時に思ったのは、まだまだ自分は歩きが足りなかった、10万軒ぐらい歩いてダメならば仕方がないが、未だ4万軒しか歩いていないじゃないか。志を立てた以上、もっと歩こうと思いました。

田中角栄元総理は、戸別訪問3万件といわれたそうですが、それは中選挙区制のときの話であり、更には、自民党から出る方や生まれ育った地から出る方ならばそれで足りるかもしれませんが、私の場合は、その3倍ぐらいは歩かないと足りないと思いました。

また、4万軒とはいえども、先に記したとおり、歩けば歩くほど、地元に対する想いが深まり、地元に暮らすヒトや自然が好きでたまらなくなっていました。

そして、自分としては、やはり、志を立てた以上、勝つまでやる、という想いでした。後援会の皆様に諮り、4度目の挑戦にご理解を賜りました。

しかし、その後は、政党の問題もあり、次に挑戦を継続できるかという問題もありましたが、連合栃木の皆様が、政党の公認も推薦もない中で、落選して年も明けない中で、全国に先駆ける形で、推薦を決めてくれました。今でも、このことが、次への挑戦権を確固たるものにしてくれたと想い、感謝の気持ちで一杯です。

その後は、ひたすら歩く、ミニ集会をやる、統一地方選挙では同志に恩返しする、シンプルな方針で活動しました。

そうこうしているうちに、未曾有のコロナ危機が世界中を襲いました。なかなか歩けなくなる中で、今、自分にできる最大限のことを頑張ると決意し、コロナで困る方にお役立ち情報を分かりやすく提供する活動をする、コロナの支援制度が複雑で心折れるものになっていると聞いたときに論文を書いて言論メデイア(全国2位)に訴えかける、このような活動に力を注ぎました。
「現場の声を踏まえた雇用調整助成金」の原稿が言論メディアのアゴラに特別掲載(2位獲得)

この間の政府の対応は、危機にあたっての早期の大胆な決断はみられないばかりか、小出しで中途半端としかいいようがなく、支援制度は現場の苦しい実態に想像力を欠いたものになっており、政治に対する危機感は募るばかりでした。

一方で、解散風が吹いては止み、が繰り返され、いよいよ任期満了を迎える前に、総理大臣の交代劇が起こりました。総理が交代すると、内閣支持率が急激に上がり、またも大逆風下の選挙が予想される事態になりました。

私は、選挙の公示前に、一つの決断をすることにしました。従来より、自分は勝つまでやる、という信条でやって参りましたが、活動期間も10年弱となり、地元で多くの支援者を巻き込んできました。

今回は「議席には届かなかったけども、得票が伸びて良かったね」では済まされない、覚悟をもって臨むならば、「背水の陣」で臨まなければならないと考え、誰にも相談することなく、公示前の後援会総決起大会で、今回議席を得られなかったら政治家になるのをやめるという「最後の挑戦」を明言しました。

さすがに決起大会終了後に後援会総連合会長からも驚かれました。これまで、支援者からは3度目のときもこれが最後だね、と言われながらも、一度も自分では最後の挑戦とは言いませんでしたが、今回ははっきりと自分の口から明言しました。

ただ、これで涼やかな気持ちで選挙選に臨むことができました。衆議院解散の3ヶ月前ぐらいから自民党現職の動きはこれまで見たことないぐらい活発な動きでした。とにかく歩いているというのが伝わってきました。

ここを押し返すには、不退転の決意を示すしかないと思ったからですが、後援会の皆さんがこの気迫を感じてくれ、更に支援の動きを活発にしてくれました。

その結果、小選挙区では4,820票届かなかったものの、107,043票を賜り、惜敗率が95.7%となり、比例北関東ブロック1位で初めての当選をさせて頂きました。

公選法上、選挙の御礼はできませんが、長年の政治活動を支えて下さった支援者の皆様には感謝の気持ちで一杯です。

日本の立て直しに全身全霊を傾けて精進します。

最後に、あらためて、今回は、多くの支援者に支えられ、最後は運も良かったと思います。衆議院選挙に3度落選した身からすると、政治は、「歩くこと」、「支援者に支えて頂くこと」、そして、「運が必要」と感じます。

 

国会に送って頂き、感じたこと

初当選させて頂いてから、地元で最も多く質問を頂くのは国会にいってみてどう感じる?といったことです。

率直に、身が引き締まり過ぎるほどの緊張感があります。しかし、より強く感じるのは、10年弱の浪人生活の間に、日本が世界の中で様々な角度から転がり落ちてしまっているという危機感です。

近時の国力低迷の象徴ともいえる、円安・物価高はむろんのこと、実質賃金は低迷を続け、購買力平価で換算したドルベールの実質賃金では、韓国に抜かれてしまったと指摘されます。

また、かつては、世界の株価の時価総額ランキングにおいて、日本企業は上位50社のうち、32社を占めた時代もありましたが、最近では1社のみといわれます。

科学技術の世界においては注目度の高い論文数において世界のトップ10から陥落し、人口が日本よりも少ない韓国の後塵を拝しております。更に研究者の中国への頭脳流出が叫ばれるなど、あがればきりがないほど、この国の低迷の現実が浮き彫りになります。

私は、今、この危機感に突き動かされ、少しでもこの国を前に進めるべく、国会質疑・国会活動に臨んでおります。

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