衆議院栃木県第4区:小山市、下野市(うち旧石橋町・国分寺町、旧南河内町)、下都賀郡(壬生町、野木町)、真岡市、芳賀郡(益子町、茂木町、市貝町、芳賀町) 下都賀郡(壬生町、野木町I)、芳賀郡(益子町、茂木町、市貝町、芳賀町)

政治を志した原風景

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政治とは全く無縁の家庭

私の場合、子供の頃から、なぜか、政治には漠然とした関心を持っていました。
物心ついた時には、中曽根康弘総理の時代でした。当時は、売上税を巡り、両親が「『選挙の時に嘘をつく顔に見えますか?』と言っていたのに、ぶち上げておかしい」と語っていたこと(後で「やることもしっかりやっていた」と語っていた)を記憶しています。
その後のリクルート事件などの政治腐敗のニュースも見て、政治は信頼できないものなのだな、なんとかできないかな、と漠然と思っていました。だから、国政選挙の結果なども注意深く見たりしていました。

しかし、私は、政治とは無縁のサラリーマンの家庭で育ちました。知る限りの親戚縁者には政治家は1人もいない、後援会幹部もいない環境でした。
この状況で、4年に1度の選挙などは大変だろうと考えたりして本気で踏み出す怖さなどもありました。このため、しばらく本気で志すまでには至らない日々が続いていました。
このような日々においては、政治のことを真面目に語るのは恥ずかしい、かっこよくないかな、などとも思っていました。

志をもつ

転機となったのは、20歳の時です。大阪で理系の学生をしていた時に、海外を1人で貧乏旅行しながら、「将来何をなすべきか」と考えました。
帰国後もずっと考えていた時に、当時、日本で金融の危機が本格化しました。
これから、就職活動をしようとしていた学生だったので、大きな証券会社などの名前は知っていたのですが、驚くべきことに、当時の4大証券の一角の山一證券が自主廃業するというニュースを目の当たりにしました。
この瞬間に、不思議なことに、今までの日本では考えられない何かが起きている、日本は沈没するのではないか、と強い危機感が電流のように身体中を駆け巡りました。次から次へと頭の中を想いがよぎりました。

「沈みゆく日本をなんとかしたい、強くしたい」、「外から不平不満を言うのではなく自ら中に飛び込むべきだ」、そして、色々な道があるけども、「自分は公の道で国のために働くべきだろう」、、、

「政治を志す!」

と志を明確にしました。

こういうきっかけだったので、私の場合は何かの原体験に衝撃を受けて政治を志したわけではありません。自問自答を重ねながら、「国のために働きたい」、そんな自分の湧き出でる想いが爆発して政治を志しました。だからこそ、純粋な「国に対する想い」「政治に対する想い」だけは誰よりも強いと思っています。

【政治を志してから、どう生きてきたか】

駆け出す

政治を志すも、政治とは無縁の家庭で育ったので、どうしたら政治の道にいけるのかわかりませんし、どうしたら立候補できるのかもわかりません。
まずは、新聞紙上などで政治のシンポジウム的なものに、ムリやり申し込んで、政治家の話などを聞きに行きました。更には、討論的な場をみつけて、まず参加する、「政治関係者との出会いを求める」ことなどからスタートしました。

司馬遼太郎さんの著作に影響を受ける

 それと同時に、本を読み漁り、とりわけ司馬遼太郎さんの本を読みふけりました。

最初に手にしたのが、「坂の上の雲」でした。日本とは何か、日本人とは何かを問い続けながら、膨大な文献をあたり、現地を調査し、その滴(しずく)を書き綴っていたのが、司馬遼太郎さんの著作と思っています。その中でも、本人が唯一映像化しないでほしいと語っていた(お亡くなりになられてからの近年、映像化されましたが、、、) とされる著作、それが坂の上の雲でした。

まだ、明治維新・開国をしたばかりのヨチヨチ歩きの日本が、当時の大国ロシアにいかに向き合って戦ったかが克明に描かれています。その30年、40年後とは大きく異なり、八方に手を打ち尽くし、慎重には慎重を期し、講和まで見越した動きをとり、日本にはこんなにも凄い先人達がいたことに感銘と刺激を受けました。

その次に手にしたのが「世に棲む日日」です。(これを書いている当時、)NHKの大河ドラマになっていましたが、幕末の長州の思想家の吉田松陰と、革命家の高杉晋作を中心に描かれています。
初めて「国のかたち」を意識した頃に、吉田松陰の稀有なまでに純粋に国を想う心と、命を惜しまぬ凄まじい行動力に感銘を受けました。やはり、次の2つの句が好きです。
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」

私も、国のために命を尽くして働きたいと想いを強くしました。

戦前の議会人に影響を受ける

 政治を志してから約10ケ月後に読売新聞で「20世紀どんな時代だったのか」という記事を読みました。そこで「斎藤隆夫」という戦前の政治家が特集されているのが目に留まりました。

政党政治が終焉を迎えようという軍部全盛の時代の昭和11年、2.26事件後に粛軍演説(※1)を打ち、昭和15年2月に支那事変(日中戦争)処理に関する反軍演説(※2)を議会で打ち、政治を変えようとしました。
(※1)軍部のクーデター計画に対する軽い判決が2.26事件までつながり、軍人が政治介入すると立憲政治は破壊すると訴えた。
(※2)「聖戦」の美名だけが躍り、名目のない長期戦、支那事変処理方針を糾弾した。
斎藤隆夫の演説によって、大きな方向性は変わらなかったかもしれませんが、議会での大演説を通して変えようとした議会人としての行動に大きな感銘を受けました。
だからこそ、私も、一味違う議会人を目指して頑張っています。

政策を語れない現実のカベ

さて、政治を志した当時、私は理系の学生でした。討論や勉強会に参加すると、しっかり政策を語れない現実の壁にぶち当たりました。
そんな時、当時出会った先輩から、「一度、政策の勉強をするために、霞が関に入って勉強した方がいいんじゃないか、それから政治を目指せ」といわれました。

たしかに、「これでは政治家になっても何もできない」、「ただ、議員になりたいだけになってしまう」、「政治への志を立てる以上、本格的に政策を作り語れる政治家になりたい」と考え、すぐに、経済と法律の勉強をはじめました。

間もなく、進学したばかりの大学院を休学しました。率直に、当時は地方の学生で霞が関にいけるのかと不安を持っていましたので、1年間はそこまでしなくていいほど勉強し、金融庁に入りました。

体で覚えた政策の基礎

金融庁へ入庁すると、法律・経済を1年間勉強したといっても、法律を作れるとか、運用できる能力が到底備わっているわけではありません。ただひたすらに官僚として深夜まで馬車馬のように働き、体で仕事を覚えていくようにしました。頭がとても切れる上司が多かったため、本当についていくだけで必死でした。

当時は、まだ不良債権問題が燃え盛っていた時代でした。庁舎の廻りをぐるぐる街宣車が回ることもありました。こうした中で、法律案を作るという政策そのものをつくる作業から、金融検査における現場の査定、金融監督まで金融危機克服に向けて駆け抜けました。
こういう激動の時代に政策づくりの基礎を教えて下さった先輩たちには感謝の気持ちを忘れることはありません。

政治への想いが常によぎる

今は、幾分緩和されていると思いますが、当時は、金融庁での仕事も毎日のように深夜までかかっていました。仕事は多忙を極める中、いつも、頭には、政治のことがよぎっていました。
経済規模を表す名目GDPは、自分が政治を志した1997年が523兆円でピークでした。その後は、下降線の流れで一度もこの時を上回ったことはありませんでした。
こういう状況で、金融に限定せず、膨らんでいく借金の問題、一向に上向いていかない経済状況に対して、早く政治の道に進みたいと思いながら悶々とする日々を送りました。

霞が関を脱藩し、政治の道へ

仕事の合間を縫っては、国会議員との出会いを求めて政治のイロハを教えてもらいました。また、政治家の勉強会に参加をしながら、志を温めました。
しかし、政治の道に進みたいという想いがもたげては、我慢する日々も、いよいよ限界を迎えました。金融に限定せず、国のために命を燃やしたい―――9年強の勤務を経た金融庁を脱藩し、政治の道へ踏み出しました。(辞めることを決めた翌日には、金融庁を辞職したため、関係者には大変迷惑をかけました。)

衆議院議員政策担当秘書の経験をもつ

脱藩後、激しい政治の荒波にもまれ大きな挫折の経験も経て、金融庁の課長補佐時代などに縁を賜っていた衆議院議員の政策担当秘書を務めました。
政策秘書として過ごした1年9か月強は、自分にとってかけがえのない時間となりました。それまでは、どうしても関わる政策が金融に偏りがちだったのが、財政、農業、成長戦略、公務員制度、福祉、外交・安保など幅広く政策立案にかかわることができました。この結果、飛躍的に政策の視野が広がりました。今でも、政策秘書としての経験を経させてくれたことに感謝の気持ちで一杯です。

いよいよ打って出る

そして、機は熟し、いよいよ衆議院選挙に出馬することになりました。
(・・・・・「3度の苦杯を舐め、4度目の挑戦で初めて当選」に続く)

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